「自らの作品を『ダークナイト』などと称する愚かな思い上がりについて」について

http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/20090817
全体的に気になる文章だけど、とりあえず簡単に。

■言ってることは結局「ダークナイトリターンズっぽくない」に過ぎない

この元エントリ、確かに詳細で確かなことが書かれてるんだけど、それはバットマンダークナイト・リターンズ」(以下TDKR)への言及に限った話で、ダークナイト(以下TDK)への言及は基本的に「TDKRのようなやり方になっていない」に終始している。
TDKとTDKRの両方を知っている人なら、作風においてTDKが「TDKRっぽくない」作品であることは分かるはず。「TDKRっぽくない」と指摘することにどれほど意味があるだろう。

■「「既存のやり方」のことを何も知らない」の根拠

後の方で「もちろん、既存のストーリーの語り方を遵守する必要などない。」以下、前述のことに言及する箇所がある。そこで元エントリ主はノーラン監督の事を「「既存のやり方」のことを何も知らない」と言っているけど、その根拠は何か。
結局「TDKがTDKRっぽくない」だ。他には書かれていない。
これはおかしい。

  • 既存のやり方を破るには、既存のやり方を知っているべきだ。
  • ノーランは既存のやり方を知らない。何故なら既存のやり方を破っているからだ。

この2つだけだと論理が循環するよね? 論理が循環しないためには、もう一つの論理を追加する必要がある。

  • 既存のやり方を破った作品からも、既存のやり方を知っていることが観測できる。

さて。
元エントリにはTDKとTDKRの比較において「TDKがTDKRのやり方を採っていない」より先の考察が含まれていない。TDKがTDKRと違う方向性を目指した可能性にとりあえず目配せはしてみたものの、上記の通り論理は正しい前提を持たない循環したものになっており、十分な言及になっていない。

■批評

ところで、そもそも単に欠点を論う*1というのは、個人の感想を超えた批評としては下策だ。世間一般に評価されている点や、作者の志向した方向性を叩かなければ「そういう人もいるのね」で終わりとなる。もちろん、元エントリのように愛溢れる薀蓄が含まれればそこくらいは客観的な価値を持つけど、基本的には実際元エントリがそうなっているように、同じ立場の人の溜飲を下げさせる程度の文章にしかならない。
実際、元エントリ読んでも出てくる感想は「これ書いた人は熱心で詳しいアメコミファンなのね」くらいのもんだ。
最後には、ダークナイトのテーマそのものへの言及が出てくるけど、これ自体が元エントリ主の物の見方の問題を浮き彫りにしている。
表現は「何を言ったか」よりも「どう言ったか」。
これこれこういう主張をしているから駄目作品なんだ、で終わった時点で、視野狭窄にすぎる。

*1:元エントリにそれができているかはともかく。