「自らの作品を『ダークナイト』などと称する愚かな思い上がりについて」について2

こんな偏狭の地まで2年も前に書かれたエントリの事で人なんか来ないだろうと思って「とりあえず簡単に」突っ込んだら、普通に来た。これはほっとくと「ほら肯定派はこんなエントリしか上げられない」とか言われかねないので、詳細にやらざるを得ない。邪が出るか魔が出るか。

■冒頭のシーン

もちろん、バットマンの映画化は事前にある程度の収益が見込まれるような大きな企画であるから、監督を引き受ければ大作を撮り上げることができるのだろう。そして、製作者の側の要求をある程度満たしつつ、「自分が本当にやりたいこと」もまぎれ込ませることもできるのだろう。
 
例えば、冒頭の銀行強盗の場面を見れば、そんなノーランの気分をうすうす察することができる。確かに、この場面は悪くない。(あの覆面は、キューブリックを意識しているつもりなのか?)だが、こんなことは犯罪映画でやればいいだけのことだ。その後のシーンとのつながりが薄くて浮いているし、ヒーローものの映画でやる意味が全く見あたらない。

映画『ダークナイト』に込められた意図の一つに、「バットマンをリアル*1に描く」というものがあるかと思う。もちろん、TDKR*2にもそういう意図は含まれていたわけだけど、実写映像では観る者の「リアル」への目が厳しくなるので、また違う形でそうした意図に挑んでいる。
前作最後で再建が始まっていたウェイン邸もろともバットケイブの存在自体を隠蔽し、ゴシック調と近未来風味と露骨なスラムの折衷だった前作のゴッサム市を純度100%近いシカゴに変え、バットマンの飛行シーンを激減させ戦闘スタイルもほぼKFM*3一本にした演出が、前作から何を変えたかったのかは火を見るより明らかだ。バットマン像が『バットマン・ビギンズ』からも大きく様変わりしている*4ため、序盤では巷で散々「無駄だ」と言われるラウ逮捕までのシーンで執拗にバットマンを描写しなおしている。加えて、ノーラン自身による「ビギンズの続編という意識で作っていない」なる発言もあるので、余談になるけど元エントリに含まれるビギンズとの連続性への指摘は、ノーランの意図を計る上ではほとんど意味がない*5
ダークナイト』が『犯罪映画』的なのも同じ意図の言わば延長線上にある。ファンタジーを許容するような演出方法では、バットマンの存在も、作中の状況や観客への問い掛け*6も、リアルに感じさせることは難しいからだ。冒頭のシーンはそうした作風を観客に知らせる最初の一手であり、「『まぎれ込ませ』た『本当にやりたいこと』」どころか「『ダークナイト』という映画そのもののスタイルの表明」と見るべきだろう。
この時点で、あくまでも『ダークナイト』をヒーローものとして捉えようとする狭窄の萌芽が見て取れる。

■アクション演出(ビギンズ編)

 これと比較すると、ノーランは全く何も考えていないことがわかる。『ダークナイト』の前作にあたる『バットマン・ビギンズ』の段階で、致命的におかしいのだ。そもそも『バットマン・ビギンズ』は、バットマンの誕生を描いた作品のはずである。しかし、ルーキー・イヤーであるはずのここでのバットマンはいきなり犯罪者の死角に潜り込み、効率的に犯罪者をしとめていく。

ビギンズについてはそもそも大して面白いともバットマン誕生譚として優れているとも思わないので、あんまり擁護じみた言及をしたくないんだけど、一応つっこんでおく。
バットマン・ビギンズ』で力点を置いて描かれたのは、バットマンブルース・ウェインの内面的な成長だ。何せ、ビギンズのブルースはバットマンになるどころか、影の同盟の下で修行をするより前から既に5〜6人の男を相手に立ち回れる格闘能力を見せている*7。で、そのただでさえ強いブルースは、意味があったのか分からない影の同盟での修行を経て、ルーシャスから様々な装備をもらって、表面的な御膳立てはほとんど済んだ状態でバットマンとしてデビューする。そして、最初こそ華々しい活躍をしたものの、それに浮かれたり大事なものが見えてなかったりするバットマン=ブルースは、様々な形でシッペ返しを食らいお叱りを受けながら内面の成長を遂げるのだ。
つまり「上っ面だけ強くても内面が伴わなければヒーローとして十分でない」というのがビギンズのテーマであり、内面を重視しているからこそ、前提となるバットマンの表面的な成長*8はさっさと済ませてしまったのだ。イヤー・ワンとは力点が異なる。
そうしたビギンズの演出意図を考えれば、「イヤー・ワン」との比較ではなくもっと適切な批評の仕方があるはず。例えば、先述のように「最初に喧嘩強いシーンあったのに、なんで修行シーンなんか入れたの」とか、「内面の成長物語なのに、クライマックスで内面を問われる展開なんかないよね」とか、そういう点を攻撃すべきであって、「イヤー・ワン」と比較したところで大した意味はない。
じゃあ何故id:HowardHoax氏は、単に「描かれる事実がバットマンの誕生である」というくらいしか共通点のない「イヤー・ワン」との比較をもって批判としたのか、と考えると、「id:HowardHoax氏が『ヒーローの誕生譚はイヤー・ワンのようなテーマを描かなければならない』と考えているから」と捉えるより他になく、これは前回のエントリで書いた指摘にも通じる元エントリの問題点だと思う。

■アクション演出(ダークナイト編)

ダークナイト』においても、脈絡のない演出は続く。すでに犯罪者を狩る方法を身につけているはずのバットマンは、なぜか今度は簡単に犯罪者にナメられるのだ。そして、ジョーカーの狂気をはらんだ悪意の発露に動揺までしてみせる(ミラー版バットマンであれば、むしろ自分がジョーカーを殺してしまわないか悩むところだろう。自分の内にある暴力性や狂気の方がジョーカーのそれより遙かに強いことを知っているのだから)。

前述した通り、ノーランには『ダークナイト』と『バットマン・ビギンズ』を明確に連続させる意図はない。が、それを差し引いても、これはおかしい。
ダークナイト』において、バットマンが「すでに犯罪者を狩る方法を身につけている」のは間違いない。なんせ、それを描くために巷で散々「無駄だ」と言われるラウ逮h(略)のだ。前作を見てない人にも、バットマンが犯罪者狩りに異様に長けているのは序盤のシーンで十分伝わる。
しかし、犯罪者との戦いの結果がバットマンの能力のみで決まるわけがない。単純な話、バットマンは強いが、それ以上にやばい敵が現れたのだ。普通なら「あんだけ悠々と犯罪者を狩ってたバットマンを平然と振り回すジョーカーまじパねぇ!」と反応するところを、どういうわけか元エントリでは「バットマンがデビュー直後なら未熟なんだから犯罪者に振り回されろ、バットマンが正義の味方慣れしたなら犯罪者ごときに揺るがされるな、苦悩するなら自分の問題で苦悩しろ」と、ものの見事にバットマンしか見ていない。
ダークナイト』で描かれる重要なテーマの一つは、正義を司ることの難しさだ。それは、例えば「正義は常に後手に回らざるを得ない」であったり、「正義は悪より制約が多い」であったり、「正義がどんなに崇高であったとしても、その遂行者はただの人間に過ぎない」であったりする。バットマンとデントは共にこれらの体現者であり、ジョーカーにこれらを的確に突かれることで追い込まれていく。
バットマンやデントがジョーカーに弄ばれる様が「正義」の不確かさを浮き彫りにする、物語の構造こそが『ダークナイト』の焦点であり、バットマンその人に焦点を当ててある種のバットマン観を提示しようとしたTDKRとは方向性が違うのだ。
表現の方向性が違えば表現方法も異なるのは当然。よって、前述の引用文を持って『ダークナイト』を批判するならば、前提として「そもそもこの方向性の違い自体が駄目なんである」ということを説明しなければ、単に「TDKRと違う」という指摘にしかならないわけだが、そんなものはない。よってこの部分は単に「TDKRと違う」という指摘に過ぎず、それをもって『ダークナイト』への批判としているこの文章は、「TDKRと違うから駄目なのだ」と言っているだけ、と自然に導かれる。
余談だが、

ジョーカーの狂気をはらんだ悪意の発露に動揺までしてみせる

については、前作との連続性で説明が付く部分がある。
ブルースはジョーカーを「犯罪者の考えは単純だ」と他の犯罪者同様に捉えようとしてアルフレッドにたしなめられるが、この考え方は『バットマン・ビギンズ』でブルースがヘンリー・デュカードから教わり、最後まで否定されることのなかった考え方だ。
前作との連続性で考えても、バットマンがジョーカーに動揺するのは仕方ないと捉えることは十分可能と言える。

■アクション2

ノーランは、自分がどのようなものを描いているのか、自分でもよくわかっていない。まあ、このようなアクションの演出は、バットマンのコミックスを適当に流し読みして使えるところを持ってきてつぎはぎしただけのような気がする。「その演出がどんな文脈でなされているのか」まできちんと読み込む作業は明らかにしていない。
要するに、ノーランはコミックスに携わる人間をナメているのだ。

よく考えると、前述の「アクション演出(ダークナイト編)」では元エントリも俺もアクションの話をしていた気がしない。
最初に書いた通り、ノーランはバットマンを描く上で、「リアルなバットマン」という意図を持ってやっている。アクションの類もそうで、

  • コウモリ召喚ギミック、消滅
  • 逆さぶら下がり、屈んだポーズなど、コウモリを模した動き、ほぼ消滅
  • 前作であれほどこだわり過ぎて師匠にすら突っ込まれた自己演出、消滅
  • 戦闘中の飛行、消滅(飛行は戦いの火蓋切り程度の演出になった)
  • KFMによる地に足着いた格闘シーンを重点的に描写

と、徹底してフィクションくささを消しに掛かっている。バットスーツのデザインもしかめ面マスクや可愛らしい耳を除けば殆ど特殊戦闘服といった体で、ヒーローというよりは特殊工作員的な描き方になっている。今の時代、銃持ちとも渡り合えるリアルな強者と言えば軍人だ、というわけだ。アクションに限らず、現実的にリファインされた特殊装備や、何人もの協力を受けてのラウ逮捕などでも、リアル志向は徹底される。
もちろん、これらはバットマンの内面を表現した演出ではない。が、作品世界、ひいては作品テーマを描く上で重要な演出だ。ファンタジーで伝わるテーマもあるが、犯罪、テロ、その中での正義など、現実に即したテーマを扱う上では、作品世界もリアルにする方が良い、という判断は、いかにも妥当と言える。
つまるところ、『ダークナイト』のバットマン演出は原作コミックの要因によって為されたものであり、流し読みだとかつぎはぎだとかナメているだとかいう、原作コミックの演出の引用を想定した指摘はことごとく的外れということになる。
じゃあ、何故id:HowardHoax氏は『ダークナイト』の演出が原作コミック外のものである可能性をエントリにしたためることができなかったのか。TDKRとの比較以外の観点で『ダークナイト』を見ていなかったからだ。それをもって『ダークナイト』を批判しているのは、つまるところ「TDKRと違うから駄目なのだ」と言っているに過ぎない。

■ド新人

私にとって、「ド新人であるにもかかわらず犯罪者を薙ぎ倒していくバットマン」という姿は、どうもノーランが無意識に持っているとおぼしきセルフ・イメージと重なるような気がするのだ。「ヒーローもののストーリーを作るのなんて初めてだけど、華麗に最高の作品を作り出すオレ」というわけだ。

この前で『ダークナイト』のバットマンを「すでに犯罪者を狩る方法を身につけている」と評しているので、これはビギンズのバットマンのことなのだろう。
ビギンズの内容忘れたのかな。
いや、忘れていいと思うんだけど、ビギンズのバットマンって、調子に乗るあまり捕らえた不正警官を見てて恥ずかしくなるような作り声で脅したり、気障ったらしく子供にガジェットを投げ渡して夢(笑)を与えたりして浮かれまくった挙句、直後にスケアクロウに薬ぶっかけられて撃退され、決め台詞と共に火までつけられて一般市民の前で無様なダンスを披露した上に逃走して「アルフレッド〜アルフレッド〜」って情けなく喚いてたよね。で、そこを過ぎた頃にはド新人は卒業なわけで。
俺あれマジ恥ずかしくて見てらんないんだけど*9、本気であれにセルフ・イメージを重ねたい人がいると思ってるんだろうか。

■あら知ってたの

だいたい、「強大な力を手にした若者が華麗なヒーロー像を想像して意気揚々と活動を開始するものの、現実には力だけではうまくいかなくて四苦八苦する」という作劇方法は、すでに60年代にスタン・リーが「スパイダーマン」で確立したものだ。

なんだ知ってるんじゃん。なんでビギンズ評があんなことになってしまったの。

■既存のやり方って、何の?

もちろん、既存のストーリーの語り方を遵守する必要などない。しかし、既存のものをふまえてウェルメイドな作品を作るのであれ、逆に既存の文脈から外れた斬新な作品を作るのであれ、当然のことではあるが「既存のやり方」を熟知している必要がある。「既存のやり方」のことを何も知らないのに、なぜ「自分は全く新しく革新的なことができる」と思えるのか。

そういえば、コメントでこんなことを書いてた。

>既存のやり方を破るには、既存のやり方を知っているべきだ。
>ノーランは既存のやり方を知らない。何故なら既存のやり方を破っているからだ。
こんなことは私はどこにも書いていません。(中略)
そもそも私は、ノーランが既存のやり方を破っているとは思っていません。そもそも既存のやり方ができていないと思っているのですから。

前者はともかく、後者については謝らないといけない。
ごめんなさい、そういえばそうだったね。「『ダークナイト』がヒーローものフォーマットじゃないかも知れない」とか、微塵も考えずに「ヒーローもの」の物差しでばっかり計ってたんだったね。勘違いしてた。
ダークナイト』が「ヒーローもの」でない可能性については既に前述した通り。だいたい、当のノーラン監督が「映画『ヒート』を参考にした」とか言ってるくらいなのだ。「ヒーローもの」のやり方に沿うことなどそもそも考えられていない。
本項最初に引用した文章は、間違っていない。ただしそれはある種の枠を想定した場合の話だ。
ここで「犯罪映画」という言葉を持ってこよう。「犯罪映画」を撮るのに「ヒーロー映画」を知っている必要があるか。あるわけがない。
ダークナイト』がヒーロー映画でないならば、ノーラン監督が「ヒーローもの」をどれほど知っているかは、古典的なヒーローものフォーマットを採っている『バットマン・ビギンズ』で判断する他に手はない。これはid:HowardHoax氏が述べたような「強大な力を手にした若者が華麗なヒーロー像を想像して意気揚々と活動を開始するものの、現実には力だけではうまくいかなくて四苦八苦する」作劇に近い作品になっているので、そちらとの比較が可能なはずだ。元エントリではこうした作劇の存在を知りながら、何を血迷ったかイヤー・ワンと比較してルーキー・イヤーがどうのと素っ頓狂なことを言っていたので、再言及が待たれる。

■「ヒーローもの」

さて、ここで「ヒーローもの」という言葉を確認しておきたい。大きく分けて2つの意味が考えられるだろう。

  • 創作物に「ヒーロー」なる存在が登場しているという【事実】を指す
  • 創作物が「ヒーロー」を描いた伝統的な作品の手法を踏襲しているという【様式】を指す

バットマンは、『ダークナイト』の本国アメリカでは国民的なヒーローなので、バットマンの登場する『ダークナイト』が前者の意味で「ヒーローもの」なのは明らかだろう。作中に登場するバットマンがヒーローかはともかく。
じゃあ後者はどうか。まぁ散々言っている通り、『ダークナイト』に後者のような様式は一切含まれていない。(あれでも)リアルと言われる『バットマン・ビギンズ』にすらあったそれは、『ダークナイト』でほぼ切り捨てられた。せいぜい「『ボーン・スプレマシー』もヒーローものだって言うなら、ヒーローものなんじゃん?」程度だ。あとは前述の通り。

■テーマ

長々と、元エントリがいかにTDKRや「ヒーローもの」という言葉に囚われた内容かについて書いてしまった。でもそろそろゴールが見えてきた。

長々と、ノーランの演出がいかに駄目なのかについて書いてしまった。しかしそもそも、この作品が「ヒーローはどうあるべきか」ということについてあんな結末を語ってしまった時点で、これは単にしょうもないものだと判断しなければならないのではないか。「みんなが清廉潔白なヒーローだと思っていた人は本当は醜いダメ人間だったけど、でも美しいヒーロー像が壊されると一般大衆が絶望するので、ウソをつきとおしてヒーロー像を守ります」って、なんなんだそれは。つまりノーランが言いたいことは、「僕自身は醜い真実に直面しても大丈夫だけど、一般大衆には美しい幻想が必要なので、ちゃんと作ってあげないとダメなんだよ」ってことか。
 
 こんなに人を馬鹿にした態度があるだろうか。いや、例えばジジェクあたりなら「この作品を一般大衆が広く見ることで、一般大衆のそれぞれが自分以外の一般大衆をメタ的に語る視点を獲得し、その視点そのものを共有することが可能になる」みたいな論陣をはることも考えられるが、そんな空虚なたわごとも全てひっくるめてうんざりする。
 
 ノーランは、自分を他人より上の視点に位置づけている。しかしそこに自己に対する反省・検討はなく、完全に無根拠なものにすぎない。そして、「ダークナイト」という言葉は、ノーランがみくびっているような軽い言葉ではない。清廉潔白な理想のヒーローが「ホワイトナイト」で、その「ホワイトナイト」のイメージを守るために汚れ役を引き受けるのが「ダークナイト」って、そんな単純で幼稚な図式を描いておいて、何かうまいことを言ったつもりでいるのか?

さて。
ここまで、演出への批判が的外れだという主張を散々してきたので、改めて書こう。

表現は「何を言ったか」よりも「どう言ったか」。
これこれこういう主張をしているから駄目作品なんだ、で終わった時点で、視野狭窄にすぎる。

……。正直、それまでの論理的な検証と違って、ここでは印象論的な言及に終始しているので、あまり言うことはない。
それはともかく、コメントを引用する。

私は、『ダークナイト』という映画の「どう言ったか」がダメだと思ったから、それについて長々と書いたわけです。そしてその上で、最後に補足として「でも、「何を言ったか」もダメじゃん」と付け足したわけです。

id:HowardHoax氏が「どう言ったか」を語ったのは『ダークナイト』におけるバットマンの描き方についてのみであって、作品全体のテーマに関する「どう言ったか」なんて、一度も言及していない。『ダークナイト』に関するどんな頭の悪そうな感想でも「正義と悪について考えさせられました」とか本作が意図するテーマの一端に触れられているのに、まるで言及がない。「『ダークナイト』だってバットマンが出るからにはバットマンを描く映画なのだ」という思い込みを最後まで拭えなかったせいで、そんな基本的な言及すらできなかったのが元エントリだ。
要するに、

言ってることは結局「ダークナイトリターンズっぽくない」に過ぎない

以上。

*1:現実世界に存在してもさほどおかしくない、という意味で。

*2:コミック「バットマンダークナイト・リターンズ」。

*3:キーシ・ファイティング・メソッド。ビギンズからバットマンが用いている実在の護身術。主人公に実在の近代護身術を使わせる演出は、『ダークナイト』への潜在的影響元と思われるボーンシリーズを思わせますね。

*4:ビギンズのバットマンは犬に負けたりしないだろう。いや、犬って強いんだよ? 誰か「犬なんかに負けるなんて……」とか言ってたけど。

*5:もちろん「続編だから連続性を期待されるに決まってるのに勝手に方針変えやがって」という非難はアリかと思う。

*6:フェリーシーンのあれ。

*7:むしろ影の同盟での修行に何の意味があったのか疑問に思えるレベルで(r

*8:格闘技能の会得や装備の獲得。

*9:もしバットマンが燃えてるところをあの子供が見てる描写があったら、恥ずかしさのあまり悶絶した挙句週1くらいで観ちゃうかも知れない。