「これが分からないやつは(r」「こんなものを絶賛してるやつは(r」という客観的な評価
俺自身はまるで出来る気はしないけど、それが出来る人はいるだろうし、それがあるべきだとも思うんよね。
“客観的な評価や批評”って。
■不幸にも“客観的な批評”と自分の感想が食い違ってしまった場合
で。
例えばまぁ誰かが客観的に「映画『ダークナイト』なんて大駄作もいいところ。なぜなら(r」と言っていたとしよう*1。まぁ、客観的なだけあってそこには根拠やら論理やらが書かれていると思われるわけで、俺なんかはさっきそういう評を「出来る人はいる」「あるべき」とか言ったくらいだから、そこに何の落ち度もない論が書かれていればそれはもう「そうか『ダークナイト』って駄作だったんだ!」と納得s
するわけないやん。
いや、嘘。するする。でも、納得しつつも何か釈然としないものが残ってしまうんじゃないかという気がする。
で、それは、ただでさえ「“客観的批評”アレルギー」みたいになってる人にはなおさらなんじゃないかと思うのね。挙句に「やっぱ客観的な批評なんてないよ! 頭でっかちの屁理屈文章はあるけど! 主観主観!」という世界に一つだけのナントカ症候群的なアレになってしまうんじゃないかと。
■「これが分からないやつは(r」「こんなものを絶賛してるやつは(r」
なんでかなー、と思った時にふと頭をよぎったのが、タイトルに書いたような言い回しで、まぁ2chの煽り合いなんかでよく見るアレ。例に当てはめるなら
とかそんな感じだろうか。まぁ、これらは文字通り単なる煽りの文言なんだけど、これは“客観的な評価”にも是非とも欲しいなぁ、と思ったのね。
『ダークナイト』が超駄作映画だとして、そう主張する論にとって「いや『ダークナイト』超傑作だし。俺泣いたし」みたいな感想ってある意味反例なわけじゃん。科学実験で学生が出しちゃった理論外の結果みたいな。で、実験ならそういう結果に対しては、例えば「実験器具の精度が低いせいで誤差の範囲だから、気にしなくていい」だとか「ここの手順を誤ったせいだ」だとか、差異の説明がついて「ああ、それならしゃーねー」と納得いくわけじゃん。
翻って“客観的な批評”ってやつには、反例=感想を違えた者への言及があんまりない気がするんよね。いや、いらないっちゃいらない*3んだけど、あると嬉しいよね、と。まぁ映画や音楽なら大抵は「経験値不足」ってところに落ち着くとは思うんだけど*4。
なんにせよ「客観的に『ダークナイト』は駄作である。なぜなら○○だからである。『ダークナイト』を傑作だなどと思ってしまった諸兄は××を観てみるべきである。そうすれば、『ダークナイト』に何が欠けているかは火を見るより明らかだろう」みたいなこと書かれてて、あまつさえその通りだったりすれば、それはもう「確かに! 負けた! 俺が愚かでした!」ってならざるを得ないわけじゃん?*5 それは、ひいては“客観的な批評”が真実客観的であるという分かりやすい証拠にもなっていくんじゃないかと思うのね。
まぁ、そんだけ。