レスラー
このエントリを元に映画『レスラー』を観直してみよう、ということで久しぶりに『スパイダーマン』を借りにいったんだけど、結果はこのざま。
ただ、良いのか悪いのか、Youtubeに該当シーンがあったので、取り急ぎそれを参照してみることにした。
あと、観客席固定カメラのプロレス試合映像が他にもないかと思ってちょっと調べたけど、よく分からんかった。
■とりあえず動画を観てみる
あくまでも映画として撮られたショットの中でプロレスを映像化したものの内でも、私がこれまでに見た限り、唯一納得のいった映像も存在する。それは、サム・ライミの『スパイダーマン』の中に含まれる。
(中略)
プロレスファンがランディ・サベージを認知するのに、顔を見る必要などない。あの独特な形で美しい軌道を描くエルボードロップを見さえすれば十分なのである。そしてサム・ライミは、そのエルボードロップを、最もよく画面で映えるアングルでとらえてみせた(ただし、エルボードロップの落下の途中でカットを割っていることはいただけないのだが)。途中でリングの全景を写すショットを挿入する際にも、きちんと観客の視点と同じアングルでとらえられているのである。
プロレスの動きは観客席からの視点を想定したもの*1だという話からの流れで、『スパイダーマン』の前述のシーンが例に挙がる。
……正直、よく分からん……。
いや、映画「レスラー」の普通の試合シーンよりこっちの方が魅力的なのは分かるんだけど、この視点なり演出なりを「レスラー」に盛り込んだ時、どんな映画になるかまで想像が巡らない……。試合中の、観客に気づかれないようにやってる諸々を描写するシーンと共存できるのかも分からんかった。
あと、このシーン観て即座に「途中まで素晴らしいけどカットはいただけない」と捉えられるような感性の瞬発力がないす。もっとモヤッとした感じの感想を抱いた。
■映画『レスラー』と試合シーン
私が『レスラー』という映画に対して抱く疑問は、ただひとつである。なぜ、これほどまでに優れた映画が、いざリング上で進行中のプロレスの試合を実際に描き出すときには、まるでダメになってしまうのか、ということだ。カメラを置く位置も、アングルの選択も、カットを割る呼吸にしても、まるでダメだと断言できる。
果たしてこれは、些細な問題なのか。それとも、映画の価値の根本に関わる問題なのか。
俺が見れば「特に魅力的ではないよな」程度のシーンを「まるでダメ」と断言できるのはそんだけ良い物を観てきた証なんだろう。まぁ余談。
例のエントリで言及されたような「優れた試合シーン」の代わりに『レスラー』で用いられているのは、他のシーンの延長線上にあるような手振れ気味接写気味に撮られた映像だ。「どういうシーンになってるかな」という目で見直してみると、「プロレスの試合を見せる」というよりは「プロレスの試合をこなしているランディを見せてるシーン」という感じになってるように思えた。『レスラー』はランディという男を描いた映画なので、それ自体は意図的なのかも知れない。
ただ、『レスラー』でランディを描く上で、プロレスシーンというか、プロレスをしているランディが魅力的に見えるかどうかは多分重要だ。ランディの実生活は元々厳しいし作中でもどんどん破綻していくけど、その中でもプロレスしてる時だけは自分にとっても他人にとっても輝けるからこそ、最後に
ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
(例のホッチキスな試合が始まった)
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
無理を押しても試合に出ようって話になるわけで*2、そこに説得力を出すためにも、ランディの出る試合自体が魅力的に描かれてる必要があった……のかも知れない。さっき書いた通り、そうした時どうなるかまで想像は巡らない……。
ランディが他人の試合を観てるシーンでは例のエントリで言及された観客視点に近いカットに(結果的に?)なっていて、何となくそのシーンを初めて観た時に「ランディが、今や自分は他の若手ほど良い試合ができるわけでもないことを感じている、という演出」のように感じたんだけど、それも単にああいうカットの方が試合が魅力的に映るから、なのかなぁ。何にせよ、後輩に対する焦りみたいなのは仮にディテールとして意図したんだとしても本筋じゃないはずなので、他の手があったんかな。分からん。
てか、ここまで書いたような内容って
『レスラー』の最初のショットの正しさは、アロノフスキーがランディという人物の人となりを理解することに真摯に努めたことによって保証されている。しかし、その理解は十分なものではなかった。アロノフスキーは、一人の男としてのランディを十分に理解したが、ランディが生涯を捧げたなりわいとしてのプロレスを十分に理解することはなかった。
もう書いてあったのよね……。いや、ここまで確信もったことは俺は全然書いてないけど。
ぐああああああああああああああああああああああああああああああ
(娘との和解シーンが始まった)
あああああああああああああああああああああああああああああああ
■ラストシーン
このまま連続して観続けると娘とのあのシーンで更に冷静さがダウンしそうなので飛ばす。
さらに言うと、とりわけ『レスラー』でのランディの最後に試合に関しては、作品の構成上、「観客からの視点」をとらえて内包することが必要不可欠であったと、私は考える。
この辺の文章観て、ラストのMCシーン観た時にものすごーくおぼろげに感じていた「ランディの一人芝居感」を思い出した。例のエントリで一番実感持って納得できた箇所。
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
(最後のラムジャムシーンがキタ)
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
♪You see me 〜
……確かに、ここに観客視点があった方が、よかったかもなぁ。最後、BGM入ってくる辺りから、「観客あってのラム」感より「ランディのためのラム」感が強くなってくる気がするけど、それならこそ前振りとしても、例のMCシーンでは観客との繋がり?が描写されてた方がいいかも知れない。
■とか書いてるうちに
『レスラー』が終わった。いや、前述の通り終盤のどギツいシーンは飛ばしたけど。あと氏が正解と評したオープニングも飛ばしてる。もともとは最初の試合シーンとかだけピンポイントで見るつもりだったし……。
もう何度も観てるけど、氏も
これほどまでに優れた映画
と評するだけあって良かったわぁ〜……って飛ばし飛ばしで観た時も言っていいんかね。